ノンストレス渡辺の研究日誌

ライフハック、健康情報、オピニオンなどの真面目なネタをふざけた文でお送りします

幸せになれる人となれない人の境い目がわかった話

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数年前の話。

 

ぼくはその頃、基本的に会社でテンションが低かった。
当時、色んな仕事をやったいて疲れていたし、仕事にもそんなにやり甲斐を感じていなかったのが原因だろう。

 

忙しさを理由にあまり職場の人たちとも話していなかったような気もする。

たまに誰かに声をかけられたときも、「なんか元気ないね」と言われる始末。

 

まあ、その指摘は的を得たものだったわけだけども。

実際、いつも気だるい感じが頭の中にまとわりついていた。


ある日、業務上の用事があって他部署の人に会いに行くことになった。
いつものLowなテンションでぼくはそこへ向かった。

 

 

そこで待ちうけていたのは一見何の変哲もないただのオバちゃんだった。

ぼくは要件をおばちゃんに告げた。オバちゃんも「ハイハイ」といった感じで対応を始めてくれた。


しかし、話しているうちに気付いた。
このオバちゃん何かが違う。


なんか、こう。
キラキラしている。


そう、オバちゃんは底抜けに明るい人だったのだ。

絶えることのない笑顔と、曇ることを知らない明るい声を、惜しみなく僕に向けてくれた。

こんなLowテンションで、他人の活力という活力を吸い込んでしまうブラックホールのような状態だったぼくに。

 

Lowテンションで登場してしまったがため、今さらテンションを上げるのが気恥ずかしいぼくは、オバちゃんの冗談めいた発言にクソ真面目に返答をした。

しかし、それがオバちゃんのツボに入ったらしく、「あなた面白いのねー」と背中をパンパンとはたかれたときには、もう一緒になって笑うしかなかった。

 

ぼくは、オバちゃんが振りまく底なしの明るさに触れ、元気になっていた。
そして。
そして、ぼくはオバちゃんに萌えていた。


ちょっとだけ。
ちょっとだけ。

 

与えれば与えられる(アドラー心理学:幸せになる勇気)

ぼくはオバちゃんから元気を貰った。
何だか薄暗かったぼくの視界に一筋の光を差し込んでくれた。


このとき、オバちゃんは与える側で、ぼくは与えられる側だった。

 

そして、ぼくは1つ重要な事を気付いた。
それは、楽しい日々を過ごしたかったり、幸せを感じたかったら、与えられる側ではなく、与える側の人間にならないといけないということだ。

 

ここでいう「与える」というのは、さっきのオバちゃんのように他人に元気を与えたり、相手を喜ばせようと尽くしたり、こちらから心を開いて相手を信頼するなど、人間関係に関してこちらから他人にポジティブに働きかけることを指している。

 

何かをあげるより、何かを貰った方が得するような気がするが、そうではない。
もしこれが、お金の話だったらそれも当てはまるかもしれない。
しかし、人間関係は違う。

 

なぜなら、与えられた側だけでなく、与えた方もそれと同等、いやひょっとすると、それ以上の喜びを得ることができるからだ。

 

例えば、ぼくはオバちゃんの働きかけによって明るい気分を得ることができた。これはぼくにとってプラスのことだ。
しかし同時に、オバちゃんだってぼく(目の前にいる他人)がどんよりしているよりは、笑っていた方が嬉しいのだ。オバちゃんもぼくという他人が笑っていることで、結果的に楽しい時間を過ごせている。

 

誰かが落ち込んでいて、あなたがその人を励まそうとして、もしその働きかけでその人が元気になれば、あなたも嬉しいはずだ。

 

誰かを喜ばせることができたらそれは、相手と自分、双方にとってプラスになる。
だが、もしここで受け身の姿勢でいれば、誰かに楽しさや喜びを与えてもらわない限り、それを実感できない人間になってしまう。


だが、もし自らが与える存在になれば、自分の意思で日常を楽しいものにすることができる。
なぜなら、他人に楽しさを与えてもらわなくても、自分が他人に「与える」という自発的な行動で喜びを生み出すことができるようになるからだ。

 

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

アドラー心理学に関する著書でベストセラーになった『嫌われる勇気』。その続編にして、アドラーの理論の実践編である『幸せになる勇気』にもこんな一節がある。

 

与えよ、さらば与えられん

 

そして、このことに関して、こんなやりとりがある。

 

哲人 いま、あなたはなにも与えようとせず、「与えてもらうこと」ばかりを求めている。さながら物乞いのように。金銭的に困窮しているのではなく、心が困窮しているのです。

 

 

青年 し、失敬な……!!

 

 

哲人 われわれは、心を豊かに保ち、その蓄えを他者に与えていかなければなりません。(中略)心の貧しい人間になってはいけないのです。

(中略)

与えるからこそ、与えられる。「与えてもらうこと」を待ってはならない。心の物乞いになってはならない。

 

 


今、幸せそうにしている人たちはコレができている。


今、幸せを感じられてない人はコレができていない。
自分が満たされないことばかりに注目し、誰かが自分を満たしてくれることばかりを考えている

 


でも、それではダメだ。
誰かが満たしてくれるのを待つのではなく、
誰かが満たしてくれたから自分もその人にお返しをするのではなく、
自分から誰かに「与える」ということをする。

 

それが心の豊かさというものだ。
そうすれば自分の手で日常に楽しさや喜びを実感できる。

そして、人というのは、そういう人間の周りに集まってくるものだ。

 

そして、ますます心は豊かになって行く。

 

だが、先に与えることは難しい

そうは言っても、自分から与えるという行為はなかなか難しい。

気付いたらすぐに辛気臭い表情をあたりに撒き散らしている。

疲れやストレスで己の活力が奪われると、自分が苦しいんだから他人に与えている余裕なんてないと、心のどこかでボヤいている。

 

それに自分から相手に踏み込んでいくのには勇気がいる。

拒絶されない保証はないのだ。

相手からの好意に、好意で答えるのは楽なことだ。

相手が先に好意を示してくれている分、拒絶される可能性は極めて低いのだから。

そう、これは勇気の問題でもあるのである。

だから多くの人は怖気付いてしまう。

 

 

 

ある日、相変わらずの覇気のない表情を携え、昼飯を買いにコンビニに行ったところ、会社の同期の女の子に出くわした。

 

「久しぶりー!」
明るく、声をかけてくれる。

 

数分の間、言葉を交わした。

彼女は元気だった。
元気いっぱいだった。
その溢れ出す活力に触れて、いつしか僕も元気になっていた。


また、社内の廊下でも別の同期の女の子に遭遇した。
すれ違いざまに、彼女はニコニコしながらぼくに話しかけてきてくれた。
ぼくは笑顔になった。
すれ違ったあとも、ぼくは笑顔を真顔に戻すことがなかなかできず、ニヤニヤしたまま歩いていると、そのあとすれ違った見知らぬ人に白い目で見られた。

 

彼女たちと話すことで、自分が与えられる側になっていたことに気付き、そしていつかのあのオバちゃんのことを思い出した。

 

ぼくも与える側にならなきゃと何回も意識してはいるものの、いつのまにやらその決意は行方不明になり、覇気の無い顔を晒している。
そしてその後ふとした時に誰かから「何か」を貰った時に、また与えられる側になっていたことを自覚することになる。
気付けば物乞いのように、与えられることを待っている。


別に「よこせ」と要求しているわけではないが、自分から与えようとしていないという意味では同じようなものだ。

 

そんなんじゃいつまで経っても心が豊かになることはないのに。
いつも何か、枯渇しているような気分になってしまう。自分には余裕がないといいわけをしてしまう。


染み付いた受け身体質、物乞い体質はなかなか改善することはできない。
気付いたそのときに反省し、何回も、何回も、頭に叩き込むしかない
意識しなくても補助輪のない自転車に乗れるようになったように、意識しなくても他人に何かを与えられるようになるしかない。


彼女たちは幸せそうだ。
もともと幸せだったから、他人に何かを与えられるような余裕を持ち合わせているのか。

それとも、もともと与えることをしていたから今幸せそうにしているのか。

そんな卵が先か、ニワトリが先かみたいなことはどうでもいいのだ。

 

きっかけはどうであれ、彼女らは他人に与える存在であることで、幸せを手にしている。
それを自然にできているのは確かに恵まれているのかもしれない。

だが、だからと言って、気付いたら受け身体質だった自分が、そんな彼女らをひがんでいても何も始まらないのである。


彼女たちからもらった元気。それは間違いなくホンモノで、そのとき感じた感動をホンモノで、そんな感動を与えられる存在に、自分もなりたいと強く思ったこともホンモノである。


だから今日もめげずに、その信念が身体に染みこむその日まで、この言葉を脳みそに刻み込むしかないのだ。

 


「与えよ、さらば与えられん」と。