ノンストレス渡辺の研究日誌

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「真面目さ」なんて社会で1ミリも役に立たないと早く気付くべきだった

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真面目

小・中・高・大学と真面目に生きてきました。

大人たちが言う「真面目に生きていれば報われる」という言葉を信じて。

 

しかし、社会ではそんなものは1ミリも役に立ちません。

役に立つどころか、ただ生きるのを辛くするだけです。

 

世の中にはまだ真面目さが美徳だと思っている人がいるのだろうか?

もしいるんだとしたら、早くその考えを改めないと大変なことになってしまいますよ。

 

 

真面目に生きてきた学生時代

本来の意味はさておき、現在「真面目」という言葉は、

先生の言うことや決まりをきちんと守れる子供

などに向けて使われています。


学生時代のぼくはまさにそんな子供でした。

真面目なことは良いことだという風潮を疑うことなく、そんな人間になろうと努力していました。

 

先生の言うことは素直に聞きました。

あれをやれと言われればそれをやり、あれをやるなと言われればそれをやめました。

それができない生徒は、自制心も礼儀もない未熟な人間だと思ってました。

 

特に、先生は勉強しなさいと言いました。

勉強をすれば、自分が望む、良い会社に入れ、良い生活が手に入ると言う。

だから僕は、勉強をして、良い成績をとることを最優先に努力をしてきました。

 

勉強をしない生徒は、辛いことに耐えられず目の前の娯楽を我慢できない心の弱い人間だと思っていました。

 

小学校・中学校・高校。

 

年を重ねるごとに、それまで成績が良かった同級生も、

「もう勉強なんてしたくない!」

と、脱落していきました。

1人、また1人と。

 

それでもぼくは勉強を続けました。

好きな人にフラれて満足に食事がとれないときも、

ケガで大好きだった陸上ができなくなって世の中に絶望していたときも。

 

真面目に勉強さえしていれば、最後は報われると信じて。

 

こうしてぼくは、旧帝大という、みんなが「良い大学」と呼ぶ大学に入学しました。

もう少しだ。

あとは、この大学生活をそのまま走り抜け。

良い会社に入りさえすれば。

 

真面目に価値はないと気づいた就職活動

高校時代に大好きだった陸上ができなくなってしまった僕は、かなり心を擦り減らしていました。

そんな状態で、大学受験という激戦に臨んだものだから、それを終えた頃にはすっかり燃え尽きていました。

無気力で、何もする気になれない。

何もしたくない。

 

それでも勉強だけはやろうと、歯を食いしばりました。

ここで崩れれば今までやってきたことがすべて水の泡になる。

真面目に勉強さえやっていれば、最後には報われる。

 

残る気力を振り絞って、講義は全出席し、テストも全力で臨みました。

フラフラになりながらも、好成績をキープし続けました。

 

そして、いよいよ最後の聖戦、就職活動がやってきました。

長かった。

ここで良い会社に入ることができれば、これまでのすべての努力が報われる。

報われるんだ。

 

そして僕は絶望しました。

なぜなら、就職活動では、勉強を頑張った人より、学生時代に好きなことに打ち込んだ人の方が圧倒的に有利だったからです。

 

自分の頭で考え、自分の興味のあることに没頭し、楽しみながらユニークな体験をし、様々な経験と能力を身につけた人こそが社会に必要とされる人材だったのです。

 

そして、勉強こそが最優先事項で、何を犠牲にしてもそれだけはやらなくてはいけないと、時間と労力を捧げ、その苦労の総量で自分の価値が決まると信じてきた真面目勢は苦戦を強いられました。

 

いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや。

社会に必要な人材を育てるための義務教育・学校教育じゃないの?

それにフルコミットした結果、まったく的外れなことになるって。

ありえないでしょ。

 

日本の教育システムってなんなの?

 

それに従って苦痛に耐えた人より、思いっきり楽しんだ人の方が報われるって。

なんだそれ?

なんなんだよそれ?

 

日本の学校で真面目が奨励されるワケ

まあ、教師が生徒を扱いやすいようにするためですよね。

教師からしたら自己主張されるより、従順な方が楽で良いですから。

それに1人1人の個性に対応するキャパもないから、画一化した育成方法になってしまう。

今のペーパーテスト至上主義ももちろん悪影響を及ぼしている。

 

結果、自分の主張を持たない、没個性の真面目人間を生み出す教育になる。

その型に見事にハマってしまった人は、晴れて立派な真面目クンとして完成する。

しかし、直感的に(あるいは理論的に)それが受け入れられなかった人は、真面目くんになることを拒否する。

 

教育とは、自分の頭で考え、自分の意見を言える人間を育てるためのものだ。

それなのに、今はそれと真逆のことが行われている。

その結果、天然で自分の頭を使える人だけが社会に必要な人材として成長しているだけ。

教育でそういう人材に押し上げてやるべき人には、本来の意味での教育の効果は全く発揮されていない。

ただ、表面的な知識を与えることに終始している。

 

真面目クンの正体

ぼくは、

教師たちが真面目を賞賛する目的も、社会が本当は何を必要としているかも、1度も考えることはありませんでした。

ただ大人たちがみんな言っていることだからと、その正当性も吟味せずに勉強に多大な労力を費やしました。

勉強する意味も考えたことがないのに、勉強という苦行に耐えている自分は尊いんだと思っていました。

与えられたものを盲信することを続けた結果、自発的になにかに興味を持つという好奇心とそれに従って自分で動くという行動力が空っぽになっていました。

 

真面目くんは就職活動のエントリーシートを書き始めて、自分の長所が「真面目なこと」しかないことに気付きます。

そして、その後、真面目は長所じゃないということに気付いて絶望します。

 

「勉強だけできても社会では通用しないよ」

 

それは聞いたことあります。よく聞く言葉です。

わかっているつもりでした。

でも、全然わかっていなかった。

なぜなら、自分の頭で考えられないから。

 

不幸にも量産型真面目クンになってしまった人は、以下のような特徴を持ちます。

真面目クンは自分の頭で考えることができない。

常識を鵜呑みにし、これまですべてのタスクを与えられてきたからだ。

 

与えられた枠組みで頭を使える人はいるかもしれないが、そもそもその枠組みを疑ったり、考えたりすることはできない。

与えられた課題はこなせるかもしれないが、課題を見つけ出すことはできない。

社会では課題を解決することより、課題を見つけることの方が100倍重要だ。

 

与えられたものがすべての出発点だったため、自分のために何かをやることが苦手だったり、好奇心が極端に弱かったりする。

仕事という枠組み以外で、自発的に何かをやるようなことはない。世界を広げるのが苦手だ。

 

さらに、自分の個性が希薄であるため、真面目であることにしか自分の価値を見出せず、より一層真面目であろうとする。

真面目クンは自分の個性を伸ばすことに無頓着だ。

 

苦痛を引き受けることこそ価値があると思っているので、そういうことを任されたときに、断れない。単に気が弱くて断れない時もある。

結果、すごくストレスを抱えることになる。

 

自分を捨てるな、真面目を捨てよう

真面目というのは美徳ではありません。

簡潔に言えば、自分より上のものに従ってさえいれば安泰と思考停止し、自分の意思や欲求を育てようとしなかった人たちを指す侮蔑の言葉です。

少なくとも、今使われている意味で言えばそうだ。

 

そのことに気付いた僕は、「真面目」という言葉と、「誠実」「真摯」という言葉を明確に分けて使うようになりました。

(先生に言われた勉強を頑張っている子供に、「真面目だねえ」と言うことはあっても、「真摯だねえ」とは言わないから)

 

そして、

過去のことにいつまでも文句を言っていても仕方はない。

今からでも、自立した人間にならなければいけない。

と決意。

 

とにかく思考停止しないようにと細心の注意を払い、脱・真面目に取り組んできました。

「自分の頭で考える」「常識を疑う」は永遠のテーマです。

 

真面目君とは頑張ってるんだけど、頑張り方を間違っている人です。

自分で考えるという本当に苦しい作業を避けて、ただ苦労さえすれば尊いんだと、自分ではない何かの指示に従っている人です。

 

自分の頭で考え、自分がどうしたいのか・何をやるべきかを考える。

苦痛を引き受けることで、自分の価値を保とうとしないで欲しい。

自分を犠牲にしないで欲しい。

自分を尊重した上で、他人にも誠実であればいいんだから。

自分の頭で考えることから逃げないで欲しい。

自分の欲求を見つめ直すことを怠らないで欲しい。

 

ここに書いたのは高度に教育された真面目クンの例ですが、大なり小なり真面目な一面を持っている人は多いと思います。


1人でも真面目の呪縛から逃れられ、自分らしい生き方をしてくれる人が増えてくれることを願います。

 

人は誰でも、どんな過去を持つ人でも、変われることを僕は学びました。

それについては、この記事に書いています。

www.wanabe.net

 

 

2017/6/16追記

真面目という言葉の意味を履き違えているという批判があったので、そのコメントに応える記事を書きました。

www.wanabe.net