ノンストレス渡辺の研究日誌

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【嫌われる勇気】アドラー心理学は脳科学と矛盾するのか?

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アドラー心理学を取り扱った『嫌われる勇気』という本がベストセラーになっていることはみなさんご存知だと思う。

 

ぼくはこれを読んだとき、その内容に感銘を受けながらも今日の脳科学(特に脳と遺伝子の研究)対立する部分があると感じた。大学で、脳と遺伝子の研究を行っていた僕は特に違和感を感じた。

 

あとで詳しく触れるが、アドラーは過去を、そしてトラウマの存在すらも否定する。今の自分があるのに過去は関係ないと言う。

 

一方、脳・遺伝子学の研究では、今の「わたし」が過去のどんな出来事(それと、どんな遺伝子)によって形成されたのかを研究している。

 

対立する2つの学問は、どちらが正しいのか。あるいはどちらも正しくないのか。それとも…。

 

遺伝や脳科学の話が出てくるが、知識のない人が読んでもわかるようにできるだけかみ砕いた表現を心がけた。一方、アドラー心理学は元々ほとんど専門用語などがなく、誰が読んでもわかりやすい学問である。

 

遺伝学の観点からアドラー心理学を見たり、時にはアドラー心理学の観点から遺伝学を解釈したり、考えるのに疲れてふざけてみたりと、試行錯誤を繰り返しながらその答えに迫った。

 

 

 

ヒトのこころは遺伝子と環境で決まる

 

遺伝学•脳科学的には、ヒトの個性(能力、性格、外見など)は遺伝子と環境で決まるということは既に結論として出ている。

わかりやすいのは一卵性双生児の研究だ。

 

双子からわかる遺伝子の力

一卵性双生児は同じ受精卵からできているため、まったく同じ遺伝子を持っている。一方、二卵性双生児は、双子ではない普通の"きょうだい"と同じぐらい遺伝子に差がある

 

だが、双子の場合は同時に産まれ、同じ家庭に育つため、(一卵性だろうが二卵性だろうが)育った環境の差がとても小さくなる。

 

よって、一卵性双生児と二卵性双生児が"きょうだい"同士でどのくらい同じかを比較することによって、行動の特性や「こころ」の性質がどのくらい遺伝するか推定できるというわけだ。

 

研究の結果の一例を示すと、記憶力は約20%、学業成績は40%弱、一般的知能や外向性に至っては50%が遺伝するというデータがある。逆を言えば、100%からこれらのパーセンテージを差し引いた残りの数値は、環境の影響を受けるということだ。

 

しかし、このことは学問として結論を出すまでもなく、皆さんもなんとなくわかっていたと思う。親の特徴を子が引きつぐことは経験的にわかっていたし、円満な家庭で育った子と虐待を受けて育った子で人格形成に差が出ないわけがない。

 

しかし、それだけではない。ここで注目すべきなのが、ぼくたちの「こころ」さえも遺伝と環境が決めているということだ。

 

「こころ」とは何だろうか。

 

簡単に言えば、ぼくたちの感情や思考、意思、記憶、欲求などを総称した概念だろう。

ではそれらを作り出しているのは?

 

である。

 

「こころはどこにある?」と聞くと、heart(ハート:日本語訳で心臓)という英単語などに象徴されるように、胸に手を当ててしまう人もいる。

 

だが、思考や感情の本体はそこではない。

 

普段意識することはないが、ぼくたちのこころは頭の中にあるのだ。何となく不思議な気はするが、改めて考えてみると、とても当たり前のことでもある。

そして、先に触れたように、どのような脳が作られるかも、当然、遺伝と環境によって決まるのである。

 

より直接的に遺伝と環境がこころに及ぼす影響を研究した例がある。

 

遺伝子がこころに与える影響

今の遺伝子工学の技術を使えば、特定の遺伝子を挿入したマウスや、逆に遺伝子を破壊したマウスをつくることができる。

そして、そういった遺伝子を改変したマウスとそうでないマウスの行動を比較することで、その遺伝子が生物の行動ひいては行動の源泉である「こころ」にどのような影響を与えているかを調べることができる

もちろん、ここで調べられるのはマウスとヒトが共通にもっている遺伝子だ。

 

この手法で生物の行動に影響を与える遺伝子が多く見つかっている。

 

  • 不安などの感情に関わる遺伝子
  • 社会行動に影響を与える遺伝子
  • 記憶や学習に影響を与える遺伝子
  • うつ病や統合失調症など精神疾患に関係している遺伝子

 

 

つまりこれらの「こころに影響を与える遺伝子」を持っていたり、持っていなかったり、機能が強かったり、弱かったりすることが、ぼくらの「こころの個人差」を生み出しているのである。

 

環境がこころに与える影響

同じように、環境がこころに及ぼす影響を調べた研究もある(この研究では遺伝の影響を排除するために、遺伝子の個体差がほとんどない近交系マウスというものが使われる)。

 

環境がこころに与える影響の例でわかりやすいのは、次のようなものがある。

 

マウスを"何もない飼育箱"と"ネズミ用の遊び道具を数個入れた飼育箱"(環境エンリッチメントという)に分けて飼育する。すると、環境エンリッチメント下で育てられたマウスはストレス耐性が上昇し、うつ病などの精神疾患にかかりにくくなる。

 

遺伝子だけでなく、環境もぼくらのこころの発達に影響を与えているのだ。

 

人生は生まれたときから決まっている?

これらの事実を知った時、ぼくは衝撃を受けた。

 

もちろん、漠然とはわかったいた。能力の差に遺伝や環境が影響しているのは。

 

しかし、それだけではないと思っていた。個人の頑張りというか、個人の意思によって未来は変えられると。

 

だけどそれさえも、自らの意思の源である「こころ」さえも遺伝と環境によって決まっていることを知ってしまった。

 

そして、ぼくたちは自分の生育環境や自分が持っている遺伝子を選ぶことはできない

つまりそれは、自分のこころ、自分の行動、そしてそれによって切り拓かれる人生は、生まれた時には決まってしまっているとういことではないか。

 

改めて遺伝と環境について考えると、そんな衝撃的な結論にたどり着かざるを得ないのだ。

そんな、そんなバカな話があっていいのか?

 

認めたくなかった。

 

だけどそれ以降、ぼくの頭のなかではこの決定論めいた考え方が居座るようになっていた。

 

世界から悪人が消えた。代わりに誰も責任を取らなくなった。

それからも僕は遺伝と環境に関する研究成果を度々目にすることがあった。

 

  • 幼少期に親の愛情が足りないとストレス耐性が低下する
  • うつ病のリスク遺伝子が新たに見つかった

 

それらを見るたびに僕の中で決定論的な考え方が勢力を拡大していった

 

人付き合いがうまくいかなくて傷ついている自分。仕事がうまくいかなくて傷ついている自分。そんな自分と向き合うとき、これまでは自分の能力のなさや心の弱さを責めていた。自分が悪いんだと。

 

でもその自分をつくり出しているものが自分でないことがわかった。

 

じゃあ僕は悪くない。悪いのは誰だ?

ぼくの遺伝子のコピー元であり、ぼくを育てた親?

いや、その親である祖父母か?その親である曾祖父母?

その親の親の親の親の親の親?織田信長?聖徳太子?アウストラロピテクス?シーラカンス?アメーバ?サイバーエージェント?生命を生み出した地球?太陽?宇宙?

 

そうかわかったぞ。

犯人は、

 

 

 

お前だ

 

 

 

 

 

 

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画像:http://ygex.jp/bigbang/

 

その瞬間、この世から悪人が消えた。

だって悪いのは宇宙の始まりであるビッグバンなんだから。

 

そして、ビッグバンを相手にして、ぼくらは罪を問うことも、罰を与えることもできない(事務所の強力なガードが存在するから)

 

だから悪人がいない代わりに責任をとるものもいない。この世はとんだ無法地帯だったのだ。

 

著書:『嫌われる勇気』アドラーとの出会い

すべての人に差し伸べられた救いの手。ある日突然、空からバラまかれた免罪符。

いや、突然ではない。それは最初からあった。ただ気づいていなかっただけだ。

だけどそれを手にしても、生ぬるい絶望で弱い自分を守っている心地しかしなかった。

 

「すべて決まっていることだから、アナタは悪く無い」

 

そう言われたところで、目の前にある不満や不都合がそこに鎮座し続けるのなら、自分が深く傷つくことはなくても、心のなかが晴れ渡ることもない。

でも、このヌルい空間の外側は、なんだかひどく、寒くて痛そうだ。

 

そんな考えを抱きながら数年が経ったある日、ぼくは一冊の本に出会った。

アドラー心理学について書かれた『嫌われる勇気』という本だ。

 

アドラーという人物はこの本が出るまで日本での知名度はあまりなかったが、世界的にはフロイト、ユングと並ぶ心理学の三大巨塔の1人とのことらしい。

 

そしてこの本は、アドラー心理学について説く哲人(哲学者)と、その内容に批判的な意見をもつ青年の対話によって綴られている。

 

あろうことか、この本の冒頭で哲人はトラウマの存在を否定し、ひいては「今のあなたがあるのに過去は関係ない」と論じた。

 

ぼくは鼻で笑った。何を言ってるんだ。過去の環境が人の人格を形作っていることは多くの研究によって証明されている。とんだ非科学的な話だ。

自然とぼくは、この本の中の青年に同調する形となる。

 

話は青年の友人で、親の虐待を受けたあと、引きこもりになってしまったという人物の話になる。

 

哲人 さて、もしあなたのおっしゃるように、あまねく人の「現在」が、「過去」の出来事によって規定されるのだとすれば、おかしなことになりませんか?
だってそうでしょう、両親から虐待を受けて育った人は、すべてがご友人と同じ結果、すなわち引きこもりになっていないとつじつまが合わない。

 

それは、遺伝子の違いだ。人のこころを規定しているのは環境だけではない。例えば同じ程度の虐待の環境にあっても、遺伝子的にストレスに強かったりすれば、ひきこもらずにすむだろう。

 

哲人 過去の原因にばかり目を向け、原因だけで物事を説明しようとすると、話は自ずと「決定論」に行き着きます。すなわち、われわれの現在、そして未来は、すべてが過去の出来事によって決定済みであり、動かしようのないものである、と。違いますか?

 

青年は問う。過去の原因など関係ないというのなら、なぜ友人はひきこもっているのか。彼が引きこもっている背景には、なにかしらの理由がある。でないと説明がつかないでしょう?、と。

 

哲人 ええ、確かに説明がつきません。そこでアドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えます。
ご友人は「不安だから、外に出られない」のではありません。順番は逆で「外に出たくないから、不安という感情をつくり出している」と考えるのです。

 

なんと哲人は、この引きこもりの人物が、外に出たくないという目的を達成するために、不安や恐怖という感情をこしらえているという。これをアドラー心理学では目的論と呼ぶらしい。

さらに哲人は、トラウマの存在まで否定した。

 

哲人 アドラー心理学では、トラウマを明確に否定します。(中略)たしかにフロイト的なトラウマの議論は、興味深いものでしょう。心に負った傷(トラウマ)が、現在の不幸を引き起こしていると考える。人生を大きな「物語」としてとらえたとき、その因果律のわかりやすさ、ドラマチックな展開には心をとらえて放さない魅力があります。

 

しかし。アドラーの考えは違うという。アドラーは「経験それ自体」ではなく、「自分が経験に与える意味」こそが、自らを決定している(形作っている)と語っている。

そうかもしれない。だからこそ、同じ経験をした人たちでも違う人生を歩むことになる。しかし、その過去の捉え方を規定しているのも遺伝子ではないのか。

 

哲人 たとえば大きな災害に見舞われたとか、幼いころに虐待を受けたといった出来事が、人格形成に及ぼす影響がゼロだとはいいません。影響は強くあります。しかし大切なのは、それによってなにかが決定されるのではない、ということです。われわれは過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものであり、自分がどう生きるかを選ぶのは自分なのです。

 

ひきこもりという状態が自分にとって好ましくない状況であるのは間違いない。だが、それを踏まえた上でなお、引きこもるべき目的が彼にはあったのだと言う。大抵の場合、それは弱い自分を守ったり、トラウマという特別な体験を掲げて自分を特別な存在に仕立てあげることだと。

 

哲人は言う。人は過去に支配されない。そして、人は変われる。

 

僕は思った。本当に人は変われるのか?だとしたらどんなに…

 

しかし、青年は否定する。そして、問う。

「私の友人に、明るくていつも周りの人を笑顔にするYという男がいる。私は彼のようになりたい。でもなれない。なりたくてもなれないのです。なぜそう思うのかって?簡単です。それが性格の違い、もっといえば気質の違いだからです。」

 

哲人は言う。あなたがYさんという他人になりたがっているのは、あなたがいま幸福を実感できていないからでしょう。そして、もしも幸せを実感できずにいるのであれば、「このまま」でいいはずがない。

 

哲人  再びアドラーの言葉を引用しましょう。彼はいいます。

 

「大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」と。

 

哲人 他の誰かになりたがっているのは、ひとえに「なにが与えられているか」にばかり注目しているからです。そうではなく、「与えられたものをどう使うか」に着目するのです。

 

その言葉を目にしたとき、ぼくの心の中に立ち込め、曇らせていた靄が、一瞬にして消し飛んでいくのを感じた。

 

そうだ。ぼくは与えられたものばかりに注目して、人の持ちものばかりに気を取られて、自分ができることを考えようとしなかった。ありもしないもの、手に入らないもの、もう変えられない過去にどれだけ手を伸ばしても、これっぽっちの意味もないのに。

 

 つきものが落ちたようだった。

だけど、そんなぼくに構うことなく、青年はまだ哲人に噛み付いていた。

 

裕福な家庭と貧困な家庭、人種、国籍、あらゆる不平等を見せつけられる中、「なにが与えられているか」に注目するのは当たり前だ!あなたは現実を無視している!!

 

哲人 現実を無視しているのはあなたです。「なにが与えられているか」に執着して、現実が変わりますか?

 

まったくその通りだと思った。他人が持っているものを妬んだり、なぜ自分にはあれが無いのかと落ち込んだところで何も変わらない。でも、人はそんなことを考えてしまう。考えずにはいられない。

だから知らなければいけない。

そんなことをするのは全くの無駄。時間の無駄。人生の浪費だと。そんなことより、自分がもっているもので、自分はなにができるのかを考えたほうが、何百倍も有益だ。

 

アドラー心理学では、性格や気質、生き方のことをライフスタイルと呼ぶ。そして、そのライフスタイルも自らが選んでいるという。

 

哲人 もちろん、意識的に「こんなわたし」を選んだわけではないでしょう。最初の選択は無意識だったかもしれません。しかも、その選択にあたっては、あなたが再三おっしゃるような外的要因、すなわち人種や国籍、文化、また家庭環境といったものも大いに影響しています。それでもなお、「こんなわたし」を選んだのはあなたなのです。

 

そして、ライフスタイルが自分で選んだものであるなら、再び自分で選びなおすことも可能なはずだ。

 

哲人 あなたはこれまで自らのライフスタイルを知らなかったのかもしれない。そしてライフスタイルという概念さえ、知らなかったのかもしれない。もちろん、自らの生まれを選ぶことは誰にもできません。この国にうまれること、この時代に生まれること、この両親のもとに生まれること、すべて自分が選んだものではない。しかもそれらは、かなり大きな影響力を持っている。不満もあるでしょうし、他者を見て「あんな境遇に生まれたかった」と思う気持ちも出てくるでしょう。

でも、そこで終わってはいけないのです。問題は過去ではなく、現在の「ここ」にあります。いま、あなたはここでライフスタイルを知ってしまった。であれば、この先どうするかのかはあなたの責任なのです。これまでどおりのライフスタイルを選び続けることも、新しいライフスタイルを選びなおすことも、すべてはあなたの一存にかかっています。

 

だが、まだ青年はまだ納得しない。

 

青年 ではどうやって選びなおせというのです?「お前はそのライフスタイルを自分で選んだのだから、いますぐ選びなおせ」といわれたところで、即座に変われるわけではないでしょう!

 

そして哲学問答は続く。白熱する議論は、

 

  • 「人生は「いま、ここ」で決まる」
  • 「すべての悩みは対人関係の悩み」
  • 「人生の嘘」
  • 「対人関係の悩みを一気に解消する方法」
  • 「嫌われる勇気」
  • 「人はいま、この瞬間から幸せになることができる」

 

などへと移っていく。これ以降の議論は著書を読んでみて欲しい。

  

この本でアドラーに興味を持った私はアドラーについて調べてみた。

するとこんな記述を見つけた。

 

アドラーの息子であるクルト・アドラーはこう語ったらしい。

父の心理学によって、人間は尊厳を取り戻した、と。

雷に打たれたよう気がした。僕が一番求めていたこと、そしてアドラーを知って1番感じていたことだ。

 

そうぼくらは遺伝子の奴隷ではない。環境という牢獄に囚われているわけではない。

僕らは意思を持っている。人生を選ぶことができるのだ。

 

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アドラー心理学の遺伝学的な位置付け

アドラー心理学を受け入れ始めた頃の僕は、この学問について、「遺伝学・脳科学の観点からは全肯定できないが、これを信じていきたほうが人生がよくなることは間違いない」という感想を持っていた。

 

それが真実かはわからないが、信じた方が救われる。まるでプラシーボ効果や宗教のように捉えていたわけだ。

 

最後まで引っかかったのが、トラウマの否定や目的論(原因論の否定)が、遺伝学の「遺伝と環境によって形質(その人の能力や性格)が決まる」という結論を否定しているように思えたからだ。

遺伝と環境の相互作用が正しいことは科学的に証明されている。

 

しかし、よくよく考えるとアドラーと遺伝学は相反する学問ではないことに気付いた。

 

例えば「過去にイジメを受けたことがあり、現在ひきこもっている子供」がいたとする。

脳科学・遺伝学的に見ればイジメというストレス、つまり環境要因が遺伝的なストレス脆弱性に働きかけて引きこもりを発症させたと見る。

 

これは正しい。

 

遺伝的にもっとストレスに強かったら、あるいはイジメが無ければこの子は引きこもることはなかっただろう。そういう意味では、遺伝子やイジメは引きこもりのトリガー・原因として機能している。

 

じゃあ、アドラーの原因の否定、目的論は間違っているではないかと思われるかもしれないがそうではない。アドラーが言っているのは、イジメというトラウマを引きこもりの原因にしない選択肢があるということを言っているのだ。

 

イジメを理由にして引きこもることもできるし、引きこもらないこともできる。そんな中、なぜ引きこもることを選ぶのかというと、その子が弱いからだ。弱くて、イジメを理由として掲げて引きこもるという選択肢しか見えていないからだ。

 

その弱さを作り出したのは?

 

それは遺伝子とこれまでの生育環境だ。「なんだ。結局、遺伝と環境の決定論じゃないか?」と思われるかもしれないがそうではない。

 

引きこもりの少年を遺伝と環境の観点から見た時、「遺伝的なストレス脆弱性、内向性」や「イジメ」というところにばかり焦点があたるが、大事なことを忘れている。それは環境要因はイジメ意外にも膨大に存在するということだ。

 

別の視点から見よう。

 

2人の少年がいて同じようにイジメを受けていたとして、1人は引きこもってしまい、もう1人は引きこもらなかった。この2人の違いは何か?考えられる要因を遺伝と環境の側面から述べよ。

 

こんなことを問われたとする。

 

過去の僕ならこう答えていた。

「ヒトの脳およびそれに基づく行動パターンは遺伝と環境によって決まる。よって、同じ環境にあったとしても、どんな遺伝子を持っているかが異なればどんな行動をとるかも変わる。よって、ひきこもった方はそうでなかった方に比べ、ストレスに弱かったり、内向的になりやすい遺伝子を持っていたと考えられる。」

 

この答えは間違いじゃない。しかし、答えはこれだけじゃない。今の僕ならこう付け加えられる。

 

「あるいは、2人の少年が同じように、遺伝的に引きこもりやすい性質を持っている場合も考えられる。この場合引きこもらなかった少年はこれまでの生活の中での環境による要因(主に教育による影響が強いと考えられる)でイジメという大きなストレスに耐える心やうまく対処する方法などを身につけたと考えられる。」

 

そう。つまり環境さえ整っていれば、引きこもりやすい遺伝子をもっていた少年も、イジメという引きこもるのに最適な過去を持っていても、それを引きこもる理由にしないという選択肢の存在を知り、それを選ぶことができるのである。

 

そして、そういった環境要因(としての教育)の1つとして人々に働きかけることができるのがアドラー心理学だ。

過去をトラウマにしないための教え。今を生きるための教育。

 

イジメや虐待を人々を不幸に導く負の環境要因だとすれば、

アドラー心理学はそれらに惑わされず、人生を自ら選ぶための勇気を手に入れるための正の環境要因だったのである。

 

「それはそうかもしれないが、我々は生育環境を選べないのだから今更そんなことを知ったところでどうしようもない」

そんな反論があるかもしれない。

 

確かに我々も、この引きこもってしまった少年も、生育環境を選べない。育った環境も、自分が持っている遺伝子も変えることはできない。

 

しかし、まだ変えられるものがある。それは今これからの環境だ。

 

そして、自分を変えるための方法(環境要因)も既にある。

それがアドラー心理学だ。

 

今からでも引きこもりの少年にアドラーの考え方を教えていけば(あるいは他の有効な教育方法でもいい)、引きこもりから立ち直り、2度とひきこもったりしない青年に成長させることは充分可能であろう。

 

それは我々も同じである。

持っている遺伝子とこれまでの環境によって形作られたこれまでの自分も、今これからの環境で過去の環境の影響を塗りつぶしていけば、充分に変わることができるのである。

 

アドラー心理学から見た遺伝・脳科学

では、逆にアドラー心理学から見た遺伝と環境とはなんだろうか。

 

それは、「何が与えられたかではなく、与えられたものをどう使うか」という言葉の中の、「与えられたもの」に該当するだろう。(厳密にいえば、環境は与えられたものと自ら選ぶものに分けることができそうである)

 

最近の遺伝子の研究では、特定の遺伝子の微妙な(配列の)違いが、ヒトの個性(性格や能力、病気のなりやすさなど)にどのような影響を与えるかという研究が盛んに行われている。だからそれらの研究結果と自分の遺伝子を照らし合わせれば、自分が遺伝的にどんな特徴を持ちやすいのかわかる。

 

その情報の使い方だが、それを見て「やっぱり自分はこうなんだな」と決めつけるのではなく、「遺伝的にこういう傾向があるのか。ならこういうことに気をつけていこう」とポジティブに活用した方が有効だろう。遺伝子によって決められているのはあくまで傾向でしかないのだから。

 

そして、そういう風に考えられるなら、遺伝学の知見をアドラーの言うところの「与えられているもの」を詳細に知るために活用することができ、「どう使うか」をより深くまで考えることができるだろう。アドラー心理学と遺伝学をうまく組み合わせて使いこなせば、今後の人生で力強い武器となる。

 

今日では、自分の遺伝子を調べることもはやそんなに難しいことではない。例えば、以下の記事では自宅でできる遺伝子検査キットについて解説されている。

 

www.wanabe.net

 

 

「今までの話は正しいかもしれない。しかし、決定論をまだ否定できていない。お前(筆者)がそういう考えに至ったのも、アドラーの考え方を知ったからであり、それも遺伝と環境によって決められたお前の行動の中に、たまたまアドラーと出会うという決定した事項が盛り込まれていたからだ。そして、アドラーを知ったお前は自分の人生は自分で決められると思い込んだまま、決められた人生を歩んで行くんだ。」

  

そんな指摘もあるかもしれない。

それに対してはこう答えよう。

確かに、今のぼくには決定論を完全否定する論を持ち合わせていない。

 

しかし、これだけは言える。

 

決定した人生だろうが、運命だろうが、何だろうが、ぼくはもうアドラーを知ってしまった。

過去の出来事をトラウマだと言い張ることに意味が無いことを知ってしまった。

ここに無いものやありもしない可能性に思いを馳せても意味が無いことを知ってしまった。

何が与えられたかに文句を言うことは全くの無意味で、与えられたものをどう使うかを考えたほうが遥かに有意義なことを知ってしまった。

 

そしてそれはぼくだけではない。

これを読んでいるアナタもだ。

 

もう言い訳はできない。

自分に起こった不都合を何かのせいにしても意味が無い。

他人の才能や他人の育ちを妬んでも意味が無い。

 

私は私でしかない。

私に与えられたものを、どう使うかを考えるしかないのだ。

 

 

だから自らの意思で、人生を選ぼう。

 

遺伝子・環境・脳/こころに関して参考にした書籍。

 

 

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「何が与えられたかではなく、与えられたものをどう使うか」が重要だと本文で語った。

その「与えられたもの」を知るための便利なツールがいくつかある。

 

その中でオススメなのが以下の記事で紹介している無料の強み診断ツールだ。

自分が与えられたものの中で特に優れているもの(=長所、強み)をいかに活用し、伸ばしていくかが人生を充実させていくための鍵である。

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もっと科学的なアプローチもある。つまり自分の遺伝子を調べるのである。最近、遺伝子を手軽に調べるためのツールが割と簡単に手に入るようになってきている。以下の記事では、その「自宅でできる遺伝子検査キット」がどういうものであるか、ということを紹介している。

 

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