-むかし書いた日記に追記したものです-
世の中には色んな人がいる。
廃墟が好きな人、甘いものが嫌いな人、2次元しか愛せない人。
そういう括りの中の1つにベジタリアン(菜食主義者、ビーガン)という人たちがいる。野菜だけを食べて獣肉や動物由来の食物を食べない人たちだ。
彼らの主張はだいたいこんな感じ。
- 動物を殺して食べるなんてかわいそう
- 動物を殺して食べるなんてできない
- 動物を殺して食べるなんて野蛮、信じられない、マジ軽蔑
- 動物を食べなくても植物由来の食物で栄養はまかなえる、むしろその方が健康
彼らの考えには矛盾や根拠のない思い込みが多いように思うし、独善的にも思えるし、そんな人たちから「マジ軽蔑するわぁ〜」と罵られては辛抱たまらんワイと思っていて、ある日ふと「そうだ 理論武装、しよう」と何かのスイッチが入りました。
彼らの主張の穴を突くべく立ち上がります。
- ベジタリアンを倒すため武器を探す旅に出た
- なぜぼくはベジタリアンを論破しようと思っていたのか
- でも、問題が価値観の違いなのか見極めるのは難しい
- 価値観が絡む問題にどう対処するか。1つの解決策は課題の分離を行うこと
- まとめ
ベジタリアンを倒すため武器を探す旅に出た
ぼくが着目したのは「薬」です。
医薬品の開発の過程では多くの動物実験が行われており、ぼくらの受ける医療は動物たちの命の上に成り立っています。
あなたたちは人間が生きていく上で動物の命を奪うことを批判されてるようですが、医薬品を使用されたことはないのですか?また、これからも一切使わないのですか?
うむ、なかなかの攻撃力のある主張だ。これでだいたいのベジタリアンは退けられるだろう。
しかし、念には念を。
ベジタリアンが医薬品についてどう思っているのか調べるため検索。
するとヤフー知恵袋にこんなやりとりがありました。
質問
ベジタリアンに対して、「薬を作るのにだって実験動物が使われる」だのと言う人はどんな思考なんでしょうか。ベジタリアンは自分の出来る範囲でのことをしているに過ぎないのに、どうしてあら捜しをしてまで偽善者だとたたくのでしょうか?
(中略)
馬鹿に限って冷やかしたがるけど、冷やかし回答はいらないからね(・ω・`)
ベストアンサー
質問者さんの言う「ベジタリアンの努力」というものは、別に万人に及ぶものではないですから。動物なんて人間存在のためにどんどん利用していい、と考えている人間が大半なんです。だから食肉もちゃんと流通しているし、動物実験だってやられているわけ。世界の主流と言ってもいい。 別に動物を自分が出来る範囲で死なせないようにしたいと考えることは自由ですよ。でもそれを「認めなさい」ということは、それこそ価値観の押し付けなんですね。 で、主流に反したことを述べているわけだから、批判されて当然なんです。 このことは別にどちらが正しい、ということではないんですよ。主流だから、マイノリティだから、という問題ではない。
(中略)
また別に喧嘩を買う必要もないんだから、自分で淡々と正しいと信ずるものをやって行けばいいんですよ。他人の賛同を求めなくていいんです。求めようとするから批判されるんですよ。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12128316002
このアンサーを見てぼくは思いました。
「あ、そっすね」と。
そして、なんか無駄なことしてたなぁと思いながら、頭に重くのし掛かっていた武装を解除しました。
そう。ぼくはいつの間にか、価値観の押し付け合いの土俵に立っていたのです。
なぜぼくはベジタリアンを論破しようと思っていたのか
理論武装しようとした理由を振り返ってみると以下の事があったと思います。
- 一部の過激なベジタリアン(バカとか、野蛮とか言う人)を見て、ベジタリアン全員からケンカをふっかけられたような気がして論破したると息巻いていたから
- 自分の考えが正しく、彼らの考えを正すことが善であると考えていたから
特に1の理由が大きかったと思います。
当然ですが、ベジタリアン中には粛々と自分が信じたことを貫こうとしている人もいるわけです。ノイジーな人たちと彼らを一緒くたにしてしまいがちですが、そこは分けて考えなくちゃいけませんね。
で、ベジタリアン思想を振りかざして肉食を罵ってくる人たちですが、この人たちへの正しい対処法は無視です。
口汚い言葉で罵られるとイラッとして、「よーしパパ論破しちゃうぞー」と臨戦態勢に入りたくなりますが、価値観の押し付け合いという土俵に立つことは無意味です。
対立の原因が価値観の違いである以上どちらが正しいということはなく、むしろ「問題が価値観の違いなのに相手の価値観を批判する行為」自体が間違っているということなります。
そういう意味では、価値観の違いを批判してきた事自体を批判することはできるのかもしれませんが、不毛なのでお勧めはしません。そんなことをするより、美味いラーメン屋の一軒でも探す方が時間を有効に使えるでしょう。
何か言われたら「君はそう考えてるんだね。わかったよ。そんなことよりサメの話しようぜ。」
と言ってかわしましょう。
2についても気を付けないといけません。
今回のケースでは相手から批判された怒りも影響しているとは思いますが、「自分の考えは正しい、相手の考えを正さないといけない。」という使命感のような欲求に駆られることがあります。今回の場合だと、「肉食を否定して薬を使うのは矛盾している。その間違いは正すべきだ」という考えです。でもそれも本当は、使命感というよりは相手をコントロールしたいと思っているだけのような気がします。おせっかいに似てますね。
しかも、問題が価値観の違いであればこの議論に終着点はありません。
何が問題になっているのかを見極めて、それが価値観の違いに行きつくようであれば、それを批判しても意味がないことに早く気付かないといけません。
でも、問題が価値観の違いなのか見極めるのは難しい
何が問題になっているのかを判断するのは難しいですよね。ネット上の議論ならまだしも、対面の議論だったらその場で冷静になって原因を見極めるのはかなりハードルが高いです。
自分がヒートアップしていたら尚更です。
そもそも、突き詰めて考えると、正しいor間違っているで判断できる事柄って実は非常に少ないんじゃないかと思えてきます。
「正しい」って何?って話になってきます。
とりあえずは、法や倫理観や多数決などの型にはめて判断するしかないないのでしょうが、法に触れない限りは人の行動を咎める正当性を主張するのは難しいところです(それすら正当性があると言い切っていいものか)
正しいという言葉は突き詰めれば突き詰めるほど訳がわからなくなってきます。
全部価値観の違いで片付けられるような気すらしてきます。
もはや正しいという言葉は数学や科学の世界にしか存在しないんじゃないかと思えてくる。
ベジタリアンの件に関していえば、ぼくは「野菜だけ食べた方が健康になれる」という主張が危険だと思いました。
それは肉や魚を食べないと、摂取が難しい栄養素があるからです。
でも「自然の野菜だけを食べることで身体の中がキレイになる」とか「肉を食べると、屠殺された際に生じる動物の負のエネルギーを取り込むことになるので不健康になる」とか、明らかにイメージ先行の言説が出回っていて、そしてそれを信じてしまう人たちが出てきてしまうという問題が生じています。
もしかして、もしかしたら、野菜だけを食べることで本当に健康になれるのかもしれませんが、少なくともこうしたイメージだけの根拠のない妄想を流布する人のことは信じるべきではないです。
ベジタリアンにも色んな人がいて、それを一緒くたにしていた僕も悪いんですが、上記のような根拠のない言説を否定したい思いから正義感のようなものを感じていたことも「打倒ベジタリアン」の旗印を掲げた原因の1つです。でもぼくは、その正義感を振りかざしてベジタリアンの人たちをコントロールしようとしてました。そこが問題だったと思います。
そしてこのベジタリアン問題に関しては、価値観の問題と、こういった科学的な議論が入り混じってることが、より問題を複雑にしているのだと思います。
価値観が絡む問題にどう対処するか。1つの解決策は課題の分離を行うこと
課題の分離はアドラー心理学に出てくる考え方の1つです。ぼくは『嫌われる勇気』という本でこの考え方を知りました。
課題の分離とは他者の課題には介入しないという考え方です。(そして自分の課題には介入させない)
その課題が誰の課題なのかということについては、その事柄の顛末を誰か引き受けるかを考えればわかります。
自分が引き受けるのであれば、それは自分の課題です。
そしてその課題が他者のものであれば、介入してはいけないのです。
今回のベジタリアンの件でいえば、あるベジタリアンの人が菜食を続けるかどうかというのは、このベジタリアンの人の課題です。
菜食を続けることで生じる顛末(例えば、健康状態の変化。どっちに転ぶかはわかりませんが)はこの人が引き受けるからです。
だからこの人の課題に他人である僕が介入することはできません。例え菜食を続けることでこの人が不幸になるとしても。
こう言うと、例えそこに困っている人がいても見捨てることが課題の分離なのか?と思われるかもしれませんが、そうではありません。
他者の課題であっても援助することはできます。
「菜食には栄養が不足する危険性があるよ」と情報を与えることはできます。
しかし、「栄養が不足するなら肉も食べる」のか「それでも少しでも食肉にされる動物を減らすために、あるいは自分は肉を食べない方が健康に良い実感があるから菜食を続ける」のかは、その人自身が決めることです。強制はできません。
他人をコントロールしようとしてはいけないし、コントロールすることはできないのです。
最後に決断を下すのはその人自身だから。
相手を論破してやろうというのは、論理で打ち負かして相手を支配しようとする行為です。だから当初の僕は援助の域を越えて相手をコントロールしようとしていたのですね。
相手がどうなっても自分の課題ではないというと、少し冷たいように思えますが、その人が自立した人間である以上(または、自立した人間になるためにも)、その決断の責任はその人が取らなければいけない。
アドバイスの結果その人の選択は変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。それを決めるのはその人の課題であって、「わたし」の課題ではありません。決めるのはその人です。
アドバイスに従わなかった人に対して、「せっかく助言してやったのに」と怒りをあらわにするのは相手をコントロールするのが目的のためそのような考えに至るのです。
これが課題の分離です。
本の中では自立を支援するためや対人関係の距離感をはかるために出てくる考え方ですが、世界中の人とコミュニケーションがとれるネット上においても有効な考え方ですね。
「他人をコントロールすることはできない」というところがポイントですが、それは言い換えると「余計な荷物を背負いこまない」ということでもあります。
課題の分離は結構奥が深い考え方ですが、完全に理解し、実践できると人間関係がかなり楽になります。例えば、「あの人は自分のことをどう思っているんだろう?」と思い悩むことがいかに無駄なことかがわかり、その悩みからの解放を手助けしてくれます。詳しくは『嫌われる勇気』をご覧ください。
話を戻すと、課題の分離を実践できれば、他人とのすれ違いが生じたとき、その原因が価値観の違いであったとしても、不毛な衝突を避けるのに役立ちます。
相手を自分の考えでコントロールしようとせず、ただ自分の考えを伝えればいいのです。そして、相手が自分をコントロールしようしてきても、自分の課題に介入させてはいけません。相手の考えを自分の決断の材料にすることはあっても、相手に決めさせてはいけません。これは自分のことだから自分で決めるということ真摯に伝えましょう。
まとめ
- 自分と違う価値観を見つけるとそれを「間違った考え」だとみなして、自分の考えを押し付けがち。
- 問題が価値観の違いなのか、正誤の問題なのかの判断は難しい。
- 結果的に問題が価値観の違いから生じていたとしても、課題の分離ができていれば多くの不毛な衝突を避けられる。
では、今日はこのへんで。
じゃナベー
▼ベジタリアンじゃないけど、野菜は大好きなんです
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