「私のその時の感情によって、目の前にいる人間の姿形が変わるんですよ」
病院の待合室。
受付に向かって、パンツスーツの30代後半くらいの女性が必死に訴えていた。
ここは、精神科も入った病院。
おそらくそういう患者さんなんだろうと、ぼくは察した。
メンヘラ女性の常識を越えた発言や、何をしでかすかわからないオーラの前になす術がなかったのか、受付の若い女性は奥へ引っこみ、代わりに中年のナースが現れた。
女性はナースに対し、同じように話し始めた。
数分後
しばらく経って再度受付に目をやってみると、2人はまだ話し込んでいた。
遠目に見てもその様子は穏やかではない。
会話の内容は途切れ途切れにしか聞こえてこなかったが、おそらく話の対立点としてこうだ。
メンヘラの女性は今日突然、何らかの精神症状が悪化したと感じたため、行きつけのこの病院に来院した。
だけど、外来の受付時間を過ぎていたため、病院側としては対応できない。
しかし、女性の方は医者に話を聞いて欲しい。
その押し問答を延々と繰り返しているということだった。
女性の冒頭の発言のような、彼女が味わったという摩訶不思議な体験談を交えながら。
その後、ようやく話がついたのか、オバハン看護師は奥の方へ帰って行き、メンヘラ女性も受付から離れて行った。
と、思いきや。
メンヘラ女性は、今度は受付の付近をしきりにウロウロ、ウロウロ、往復し始めた。
あまりにもウロウロしていたため、そっちを見てしまったら、女性と目が合ってしまった。
とてもクレイジーな形相をしていたため、ぼくはすぐに目をそらした。
なかなか帰らないメンヘラ女性。
そして、オバハン看護師が再度登場した。
メンヘラの女性「私は夢の中にいるんですかね?」
オバハン看護師「夢の中じゃなかたい。ここは町の病院たい。」
女性は相変わらず、「間に受けたらコッチが負け」な発言を繰り返している。
2人の会話を聞きながら、ぼくはオバハンって最強だなぁと思った。
メンヘラ女性の威圧感はハンパない。
何をしでかすかわからない恐怖もある。
若いナースじゃ、気圧されてタジタジになりそうなもんだ。
オバハンのあの何にも臆することのない姿勢はホントにすごいと思う。
それは何もメンヘラに対してだけではない。
おそらくこのタイプのオバハンはアメリカ大統領にだって物怖じすることはないんだろう。
オバハンは自分の中の常識を一切疑うことなく、そこから逸脱することなく、ゴーイングマイウェイで生きている。
自分の常識でカチコチに身を固めたオバハンには弱みがない。
ただただ自分の世界を生きる。
だから、誰にも負けない。
それがいいことなのかどうかはわからないが、見ていて何かすげえなと思ったのである。
でも、だからこそ、オバハンがメンヘラの気持ちを理解できる日はこないんだろうな。
ただの、自分の常識の埒外にいる、頭のおかしい人間。病院のルールに則り、そいつをできるだけ刺激することなく家に返すのが、看護師としてのオバハンの仕事なのだ。
ぼくは、メンヘラ女性の体験談に共感してあげることはできないが、彼女が嘘を言ってないことはわかる。
オバハンはそのことがわかっているのかなぁ。
自分の中の強固な常識に生きるオバハンは、そのことを理解してくれているのかなあ。
常識というのはしばしば覆る。
常識を覆すのはだいたいの場合科学の進歩だ。
例えば、心や感情は長く胸の中にあると考えられていた。
でも、実際はそんなところには無い。
心は脳みそと脳内物質が作り出している。
頭の中の化学反応なのだ。
精神とは物質なのである。
だから脳が少し調子が悪くなれば、意味不明な言葉だって口から出てくる。
それは本人が悪いとかじゃなくて、ただ脳の調子が悪い。それだけなのだ。
しかし、オバハンの中で出来上がった常識はカッチコチなので、ずっと変わらないのである。
しかし、だからこそあの強さがある。
あちらを立てればこちらが立たない。
やはり何事もトレードオフなんだなぁ。
そして、この話にはオチも結論もない。
強いてこじつけるとすれば。
オバハンという人種は実に興味深い。
この年になってよくそう思うようになった。
それは、僕には無い生命力を持つオバハンに、ある種の憧れを抱いているからかもしれない。