台風15号で停電した千葉県富津市金谷の夜は、それはもう完全な暗闇だった。
人工的な灯りは1つもない。初めて見る、この町の本当の夜。
しばらく町を歩くと、ちょっとした矛盾に気付いた。この夜は今までにない暗さで覆われているのに、なぜか目の前の建物や道の輪郭は肉眼でしっかりと捉えることができる。
その矛盾は、上空から町を照らす月の仕業だった。
夜なのに、路面には自分の影すら落ちている。
月明かりがこんなに明るいなんて知らなかった。
迷わず家に帰るには充分な明るさだ。
電灯のない夜は、いつもより暗いのに、いつもより明るかった。
停電でスマホを充電できないので、SNS等はほとんど使わなかった。ていうか、電波もめちゃくちゃ弱いというのもある。
なんだか心が穏やかだ。
人間の(遺伝子の)進化は、早すぎる技術の進歩、激変する環境の変化に追い付けてない、という事が言われている。
俺らの遺伝子、体の仕組みは狩猟採集の時代の人類とあまり変わらない。
そして自然界では、夜は暗いのが自然で、遠く離れた知人とは連絡がとれないのが普通だ。
だから、夜に人工灯を浴びると「なんで夜なのに明るいんだ」と体内時計が混乱する。
超遠隔でも他人と繋がれるSNSは、コミュニケーション過多を引き起こす。そして過度な快感、失望、ストレスで激しく脳を疲弊させる。
どちらも、便利だけど人間には不自然な状態。
まあそんな事はもうとっくに知られた話で、たまにはデジタルデトックスしろというのも耳タコな話題だ。
実験的にも、「SNSファスティングでストレスが減る(1)」「キャンプに行くと体内時計が正常な状態にリセットされる(1)」というデータも出ている。
だから全部知ってる話で、誰でもなんとなくはわかってた事ばかり。
それでもやっぱり、実際に体験してみて初めて腑に落ちたという凡庸な感想に行き着くわけだった。
凡庸だけど、俺にとってはとても重要で、価値のある実体験。
たぶんキャンプを楽しむ感覚も、コレと似たものだろう。
便利さの弊害を洗い流すため、あえて不便な環境に身を投じる。
でも今の状態は、いつもと同じ町にいながら電気や水、電波が使えないという状態だ。
だからそれらのライフラインが存在する日常と存在しない非日常をダイレクトに比較できるという意味ではかなり特殊な状況。
それらの文明の影響を、よりはっきりと体感できる。
便利なのは良い事だ。でも俺はその便利さに飽きていた。だから、突然の不便さが新鮮だった。新鮮だし、遺伝子にとても馴染んだ。心地よかった。
昨日の記事に書いた「瓦礫の片付けが楽しかった」というのと通じる話でもある。
テクノロジーの進歩により、高度に分業化された労働は、もはや細切れになり過ぎて、自分の仕事の価値を見出すのが困難になっている。
自分の生に直結する仕事をする事こそが、とてもわかりやすく生を実感できる、人間らしい生き方だと感じた、という話だ。
やはり技術の進歩がもたらした副作用的な弊害。
何か生き方を考え直す必要があると思った。
金谷からフェリーで電気が通じている街に避難した初日は、夜でも街や部屋が明るい事が少し気持ち悪かった。光のない自然な夜が恋しかった。
でも今更便利さを手放せない事もわかる。何かいい塩梅でテクノロジーと付き合って行く事を模索する必要がある。
とりあえずの処方箋としては、最低でも、たまにキャンプかなんかに行って、便利さという飽きを洗い流し、遺伝子を休めてやるといいと思った。
暑いと冷たいアイスが食べたくなり、寒いと熱いおでんが食べたくなる。極端へ行くと、逆方向の極端が欲しくなる。
そんな感じで便利さと不便さを行ったりきたりして、やり過ごしていくしかないんだろう。当面のところは。テクノロジーとの距離の取り方を模索しながら。
【参考文献】
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