汚ない言葉を吐く人というのがいる。
バカ。
アホ。
ハゲ。
シネ。
コロスけ。
汚い言葉を吐くことは一般的に悪いことだと言われている。
それはそれを聞かされた人が、気分を悪くするからだろう。
しかし、ぼくらは時として汚い言葉を吐きたくなる。
特にイライラしているとき、怒りに駆られたとき。
汚ない言葉を吐きたくなる。
つまり、それはそうしたいという欲求があるということだ。
食欲や性欲に生物学的な存在理由があるように、「汚ない言葉を吐きたい」という先天的な欲求が存在しているということは、そこには同じように生物学的な存在理由がある可能性が高い。
では、その存在理由とは何か?
汚ない言葉はココロのう◯こ
ぼくが汚ない言葉を吐くことの意義を見出したのは昨年のことだ。
満月が綺麗な夜だった。
というのはウソで、月の事なんて全く覚えていない。
というか夜とかいうレベルじゃなくて、もっと長いスパンの話だ。
当時、ぼくは胃が悪くて病院を転々としていた。
中々まともに話を聞いてくれる医者がおらず、かかりつけの病院が見つけられずにいた。
病院探しに疲れ、どんどんイライラもたまっていっていた。
そしてとうとう、固形物をまったく食べられなくなり、オマケに不眠にまでなってしまって、栄養不良+睡眠不足で高熱が出て寝込んでしまった。
頭は痛いし、手足もジンジンして痛い。
あーあ、こりゃ長引くわ。
そして内科に行って、食事ができないから栄養剤の点滴を打って欲しいと頼んだのに、なぜか頑なに断られた。
家に帰って、ぼくはイライラしながら横になっていた。
立っていられないほど体調が悪いのに、これまでの消化器科医とさっき行った内科医への怒りが収まらない。
眠りたいのに、少し前から続く不眠と今込み上げている怒りも手伝って、中々寝付けなかった。
するとたまたま知人から電話がかかってきた。
最初は違う話をしていたが、いつの間にかさっき行った内科やこれまで行った消化器科の話になっていた。そして、気付けばぼくは、それらの医者を持ちうる限りの語彙を総動員して口汚く罵っていた。怒りを一寸も隠すことなく、そこら中に垂れ流した。
知人は、特に口を挟むことなく適当な相槌を打ちながら聞いてくれた。
ひとしきり罵り終わったあと、知人は適度な距離感で共感を示す言葉をかけてくれ、また少し話して電話を切った。
再びぼくは横になり、目をつぶった。
気付いたら朝になっていた。
身体が軽かった。頭痛や手足の痛みも全くない。体温はまだ微熱だったが、ここ数ヶ月で1番といっていいほど頭がクリアだった。
そしてぼくはその日、100%休むだろうと思っていた会社に出勤した。
こんだけ熱が出て、一晩で回復した事なんて今までなかったからだ。
ぼくは思った。
ナニコレ、こんなの初めて………\\\\\
心のデトックス効果がある?
人は怒りに駆られると、汚ない言葉を吐きたくなる。
怒り、イライラ、ストレス。
これらは言い換えれば、心に溜まる汚ない感情の根源だ。日々の生活で心に付着していく垢のようなものだ。
そんな不要なカスをいつまでも抱えていても害になるだけである。どこかで体外に排出しなければならない。
つまりぼくらは、そんなココロに溜まった汚物を、汚ない言葉として口から排出することで、心をきれいに保とうとしているのではないか。
汚ない感情を消費するためにはやはり汚ない言葉がもっとも自然なのだ。
心に浮かんだ言葉をそのまま口にすることでしか、感情を表出することはできない。それ以外の言葉はただの嘘である。
汚ない言葉を吐きたくなる欲求の正体。
それは、言葉を操る我々ヒトが心に溜まった汚物を吐き出し、自浄作用を働かせるための本能なのだろう。
いわゆる心のデトックスである。
だから、あなたがついイラっとして汚ない言葉を使っても、それは自然なことである。
普段は良い人なハズのあの人が、汚ない言葉を使うところを見てもそれは仕方ないことだ。
必要以上に咎めてはいけない。
アイドルもウ◯コをするのと同様に、どんな聖人君子でも生きていればココロにウ◯コがたまっていく。
ホリエモンの著書に書いてあった一文にハッとさせられたことがある。
日本人は、他人に1つでも落ち度があるとその人を嫌ってしまう人が多い。しかし、完璧な人間なんていやしない。だから彼は、どんなに善良そうな人でも、どこかにダークサイドなところがあることを前提にして付き合っていると。
一見ドライな考え方にも思えるが、人間の本質をついた合理的な考え方だと思う。
汚ない部分がない人間なんていやしない。完全にクリーンな人間なんて求めていたら、人付き合いなんてできない。
認めよう。我々が人である以上、この社会で生きている以上、心が汚れないなんてことは無理なのである。
そして、それを吐き出すことの必要性も受け入れようじゃないか。
しかし、汚物を見境なく撒き散らすのは人間のすることではない
とはいえ、実際問題として場所を問わず、誰かれ構わず心の糞尿を撒き散らしていては、ただただ周囲の人を不快にしてしまう。
だから、心の排泄はよく考えて行わなければならない。
海に向かって叫ぶのもやらないよりはいいような気がするが、やはり人に聞いてもらうことが1番効果があるように思う。
しかしそれにしても、汚ない言葉で表現された恨み辛みを、何も言わず受け止めてくれる人というのも、そうそういるわけじゃないだろう。
ここまで考えたところで、そういえば昔2ちゃんまとめかなんかで、愚痴聞きサービスというのがあるってカキコミを見たことがあったなと思い出した。
愚痴聞きサービスでググったら出てきた。
スカイプなどを使って、ひたすら依頼主の話を傾聴してくれるサービスがあるらしい。対面のもある気がする。
なるほど。お金を払えば結構なレベルの汚ない言葉を吐くこともできるというわけだ。世の中いろんなサービスがあるなあ。そしてやっぱりそういうニーズもあるってことだ。
これなら、交友関係を崩さずに心の膿を吐き出すことができる。本当に限界に達したら、こういうサービスを使ってもいいんだろう。心療内科に行くよりは安上がりだ。
ぼくらの欲求には理由がある。
汚ない言葉を吐くことにも意義がある。
欲求がある以上、それを上手に解消していくことが必要だ。